はいいろねこ雑戦記

いきることはたたかいだ

はや七年。抱えるは人の勝手。

お題「今日の出来事」

 

東日本大震災が起きたあの日からもう七年ですか。

月日が経つのは早いものです。

内陸部だったため、家や周囲にそこまでの大きな被害はなく

親族も無事だったため運が良かったと言えるのでしょう。

多くの亡くなれた方のご冥福をお祈りする気持ちは変わりません。

多くの人が失ったものも数知れない事でしょう。

 

それでも生きていくために、その笑顔を浮かべるために、

がむしゃらに戦ってきた方々には頭が下がります。

本当に、よくぞ戦われました。

お疲れ様です。

お疲れ様です、という言葉しか出て来ないのですが、

それくらいしか僕の敬愛の気持ちが表現できないので言わせて頂きます。

 

僕は当時、前日に大学の一般入試を終えて宮城の実家にいました。

そこに身動きが取れない程の大きな揺れ、

家の中のものが倒れて壊れる大きな音、それ以上の地鳴り。

地震発生後は余震を恐れて雪の降る家の前に

着の身着のまま座り込んでいたことを覚えています。

 

家の中はぐちゃぐちゃで、靴を履かなけば踏み入れない。

余震がいつ来るか分からないために下手に入ることも出来ない。

電気、ガス、水道は全て止まった。

携帯は圏外、充電も出来なかったためほぼ使えない。

雪の降る中、満足に暖を取ることも出来ない。

寝泊まりは車の中。

外部の情報を得る手段が携帯式のラジオしかなかったため

津波の映像を車のワンセグで見た時は映画の出来事のように思っていました。

被害の全貌を知ることも出来なかった中で、突然ラジオから

海岸に数百規模の遺体が打上げられていると聞いた時は

その事実にただただ言葉を失いました。

ラジオからの情報が増え、毎日沿岸の状況を聞くたびに信じられなくて。

共働きの両親のために自転車で開いているスーパーがないか毎日探し回りました。

たしか三日ぶりに自分の部屋で寝たときは、

余震が来たら何時でも外に出られるよう服を着込み、

枕元に財布と懐中電灯と靴を置きました。

食べていたのは冷蔵庫の中にあった調理せずに食べられるもの。

二日に一度、湯船に溜めていた水を少し使ってタオルで体をふきました。

 

書いているだけでも不安と恐怖でめまいがしてきますが、

当時はその日を生き抜くことに精一杯だったので

日々の暮らしの細かい部分の記憶はありません。

 

多かれ少なかれこういう思いをするのが大規模災害。

さっきまで隣で笑っていた人が次の瞬間にはいなくなるかもしれない。

そしてそれは自分かも知れない。

僕がこのことを話す時に運が良かった、と表現するのはそういうことです。

人事を尽くしていようとどうしようもないことはある。

その時が来ても、来なかったとしても

後悔のないように生きたい。

そう思った原点です。

 

いまだに自分の人生を生きることが出来ていない

僕にはこれからの課題でもありますがね。